市原悦子

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市原悦子:永遠の「おばあちゃん」役者、その生涯と演技哲学に迫る

市原悦子(いちはら えつこ)という名前を聞いて、あなたの胸に浮かぶのはどのような姿だろうか。NHKの朝の連続テレビ小説『おはなはん』で全国民の祖母となり、数々の時代劇で芯のあるお母さん役をこなし、生涯にわたって日本の家族愛を映し出した巨匠女優。その温かい笑顔と力強い語り口は、まるで実の祖母のような親しみやすさで、幾多の視聴者を魅了し続けてきました。

2019年2月16日、市原悦子は急性骨髄性白血病のため84歳でこの世を去りました。その訃報は、日本の芸能界に大きな衝撃と喪失感をもたらしました。しかし、彼女の遺した数々の作品と、役者としての矜恃は、今もなお多くの人々の心の中に生きています。この記事では、市原悦子の生涯とその演技哲学、そして彼女が日本文化に残した計り知れない功績を詳しく紐解いていきます。

市原悦子という名優の軌跡

独り立ちから新劇の寵児へ

市原悦子は1936年(昭和11年)1月24日、東京府東京市浅草区(現:台東区浅草)で生まれました。生まれも育ちも浅草という、下町の情緒あふれる環境が、彼女の演技に独特の温かさと人間臭さをもたらしたのかもしれません。実家は質屋を営んでおり、幼少期から様々な人間模様に触れる機会に恵まれていたようです。

高校卒業後、市原は役者を志し、1955年(昭和30年)、新劇の名門「俳優座」に入所。同期には、のちに名優として活躍した小沢昭一、岸田森らがいました。俳優座での修養は、彼女の演技の基盤を築く重要な期間となりました。しかし、市原は在学中に結婚し、一時は役者から離れる時期もあります。それでも演技への情熱は冷めず、のちに再び舞台に立つことを決意します。

『おはなはん』と国民的女優への道

市原悦子の名を全国区にしたのは、何と言っても1966年(昭和41年)から1967年(昭和42年)にかけて放送されたNHKの連続テレビ小説『おはなはん』です。主人公・おはな(演:岩下志麻)の姑・おふく役を演じた市原は、その優しくも時に毅然とした態度で、朝ドラ史上最も人気のある姑役の一人として記憶されています。当時30代後半で演じたおふく役は、彼女に「国民的おばあちゃん」というイメージを確立させる決定打となりました。

以降、市原は数々のテレビドラマ、映画、舞台で活躍。特に時代劇においては、主人公の母親や姑役を数多く演じ、その存在感で作品に深みを加える存在として重用されました。彼女の演技は、決して大げさな感情表現ではなく、静かな眼差しと、時に一言放つ台詞の中に、人物の内面の葛藤や愛情を凝縮させる、まさに「名演技」の代名詞でした。

市原悦子 おはなはん 写真

その生涯と最期:闘病と最期の舞台

急性骨髄性白血病との闘い

2018年秋、市原悦子は体調を崩し、急性骨髄性白血病と診断されました。白血病は「血液のがん」とも呼ばれ、高齢者にとって特に厳しい病気です。しかし、市原は病に倒れた後も、役者としての責務を果たすことを諦めませんでした。

2019年1月、彼女はNHK大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』への出演を発表。これが、彼女にとって最後の仕事となります。病と闘いながらも、彼女は「舞台に立ちたい」という強い意志で臨んだと言います。その姿勢は、単なるプロ意識という言葉を超えた、役者としての魂の在り方を示していたでしょう。

最期の舞台とその最期

市原悦子が生涯最後の舞台に立ったのは、2019年1月13日放送の『いだてん』第8回。日本陸上競技の母的存在である「石川芳子」役を演じ、主演の中村勘九郎(当時)と共演しました。わずか数分の出演時間でしたが、その場にいる者全てを圧倒する存在感を放ち、視聴者に深い感動を届けました。この放送からわずか1か月後、彼女は息を引き取りました。

最期の言葉は、「ありがとう」だったと伝えられています。周囲の人々への感謝の気持ちと、長かった役者人生への満足が伝わってくる言葉です。享年84。その死は、日本中のファンや関係者から深い悲しみと追悼の声で囲まれました。

【引用】 市原悦子さんの訃報に接した所属事務所のコメント(2019年2月16日) 「急性骨髄性白血病のため、本日2月16日午後0時5分、都内の病院で永眠いたしました。最期まで役者として舞台に立ちたいという強い意志があり、1月に放送されたNHK大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』にも出演し、その姿勢は周囲の者として胸に刻み続ける所存です。」

日本文化に刻まれた「おばあちゃん」像

朝の連続テレビ小説における存在感

市原悦子は、朝ドラという国民的番組において、単なる「恶役」や「サポートキャラクター」にとどまらない、多様な女性像を世に送り出しました。『おはなはん』の姑・おふくは、新時代の嫁との距離感を絶妙に描き、当時の日本の家族問題を静かに浮き彫りにしました。また、1984年(昭和59年)の『おしん』では、主人公おしんの姑・田中すず役を演じ、その強固な意志と商売への情熱で、 viewersを魅了しました。

彼女が演じた女性像は、多くが日本の近代化という激動の時代を生き抜いた、芯の通った人々です。市原自身が持つ「下町の温かさ」と「芯の強さ」が融合し、日本の近代史を支えた女性たちの姿を、リアルに、しかしドラマチックに描き出すことができたのでしょう。

時代劇と現代劇をまたぐ万能役者

市原悦子の演技の魅力は、その万能性にあります。時代劇では、殿様の奥方から百姓の母まで、幅広い役柄をこなし、時代の空気を醸し出す能力に長けていました。一方で、現代劇においては、近所のおばちゃんから、高齢の職人、そして現代を生きる複雑な祖母まで、その役柄は多岐にわたります。

彼女の演技は、決して派手ではありません。むしろ、無駄を削ぎ落とした、極めてプロフェッショナルな洗練が特徴です。一つの表情、一つの仕草で、人物の背景や心情を表現する力は、まさにベテランの証。若手の役者にとって、その演技は「教科書」そのものでした。